Maison book girl@人見記念講堂のライブのこと

フィロのスのことを書いた時に「実力のアップに伴い人気も確実に上がっている感じがするのが、Maison book girlとフィロソフィーのダンスの2組」と書いたのですが、Maison book girlの方は2016年に下北沢シェルターで3776とトリプルファイヤーとの3マンという謎の企画で初めて観て、それ以降はフェス的なところで数回観た限りでワンマンは観たことがなかったので、そして周囲からは「ヤバい」という声も聞こえてきたため、これは外せないという気持ちで三軒茶屋へ。

結論。これはすごい。
フィロのスがどこまでも自由でファンな空気をみしみし発信することで場を操っているとすれば、その真逆。一貫した美意識に貫かれたその世界観で圧倒してくる。
彼女たちの楽曲はメロディもアレンジもものすごく緻密に計算され、歌詞も独特の世界観で完全に制御されたものばかりで。一方ライブ中絶えず映される映像はその逆で、泡や雫のうごめく様であるとか色を水に流してみるとかの偶発性の高いものや、ステージ上の彼女たちを撮影してそれをリアルタイムで加工したものとか。

計算されたダンスを踊り制御された歌詞を歌うのだけど、生身の人間である以上そこにどうしても偶発性やリアルタイム性はあるわけで、完璧にコントロールされた楽曲と、偶発性やリアルタイム性の高い演出の狭間で、彼女たちはその合間を行き来する。そして抑制された空気でできあがった世界の中で、それでも時折どうしようもなく発せられる彼女たちのエモーションがとても美しいのです。

だからこんな広い会場で生バンドでもなかったのだけど、それはすごく正解だと思って。生バンドが演奏でエモーション垂れ流してしまったら、彼女たちのそれが見えなくなってしまうから。
ものすごい絶妙なバランスの上で成り立っている、彼女たちと楽曲と演出とそれら全てでひとつの表現・作品と言ってしまっていい状態。大きな生き物を観ている心地。

それでも最後に照明のバトンを敢えて下げ、「入力ソース:映像信号が入力されていません」とは表示されているけれど、よく見たらシングルリリースとツアーの告知になっているブルースクリーンを映した状態、まるでライブの準備中のような景色で終了というのは「まだ完成してない」ということの意思表示と受け取りました。

2016年にシェルターで観た彼女たちからは「何かをやろうとしている意志」は感じたのだけど、結局このスケールでできるようになってそれがようやっと形になりつつあるということなのでしょうか。そしてこれでも完成ではないということは、ここからどう進化しようと目論んでいるのか。
これ、今の日本中のコンテンツの中でも相当おもしろいブツですよ。