映画「ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。」観ました。

原作は未読。
「東京ロッカーズ」にはまるで間に合わず、かつ地方在住。
登場バンドで生で触れたことがあるのはメジャーデビュー後のJAGATARAと、ワールドミュージック系サウンド移行後のZELDAのみ、というスペックで。
映画としての純粋な感想は、「傑作!」というほど映画表現として、もしくは物語として優れていたかというと、それほどでもなかったのかなと思いました。
それでもすごく丁寧に作られているのはセットや衣装を見ればわかるし、そもそも薄らぼんやりとしか捉えられていなかった「東京ロッカーズ」を、フィクションを借りた形ではあっても全体像を把握できたのはとてもよかったし、それをこういう物語として残る形で紡いだ、という事実だけでも、すごく意味のある映画だと思いました。
細かいところでは、小滝橋LOFT周辺の再現度が容赦ないレベルだなあとか、ミュージシャンの役を純粋な役者で固め、非ミュージシャン役に峯田・浜野謙太・渡辺大知というミュージシャン兼業を多く持ってきたのは面白いなあ、とか。
ただ、気になった点が2点。
ひとつはZELDA(ロボトメイア)の扱い。
映画の副題「自分の音を鳴らせ」は、映画全体を貫くメッセージであり、売れることと「自分の音」の間で揺れているバンドをずっと作中で描いていたわけですが、映画に登場した全バンドの中で最も「売れること」と「自分の音」とのバランスを取りながら長きにわたってしたたかに活動できたバンドは、史実としては間違いなくZELDAであり。
しかし映画の中ではヒロインの彼女もバンドやってみましたレベルの扱いで。
まあ、映画のストーリーにそういうリアルの部分をダイレクトにぶち込んだら、本編が歪むレベルで恐ろしく皮肉なことにもなりそうではありますが、もう少しでも「東京ロッカーズ以降」を描く中に差し込んでほしかったです。
ふたつめは作中での楽曲「もうがまんできない」の使い方。
正直あの演出にはものすごく違和感を持ちまして、パンフレット買って読んでみたらトモロヲさん自身がこの曲を「ポジティブ」と評している文言があり、「これは曲に対する認識が根本的に違うのだ」と思いまして。
私は10代の頃に「もうがまんできない」に初めて出くわして以降ずっと、この曲は「追い詰められて、でも自分の力ではどうにも状況を変えられない人間の断末魔」だと思っています。
自分の中でずっと、生半可に触れてはいけない曲です。
そうでなければ「それがちょっとの搾取ならば」の部分がああいう歌や演奏にならないし、そもそもこの曲名になっていないと思うので。
だから、自分の中で曲に対するそういう意固地さがもう少し薄ければ、もっと気持ちよく観られたであろうなあとは、思います。
でも、全体として「観てよかった」と素直に思える映画ではありました。
観た友人たちと呑んで話しても捉え方は様々で、SNSでもかなり賛否両論なのが面白い。
登場するバンドやミュージシャンをどう捉えるのかの角度、あの時代への思い入れや解像度、クドカンにフォーカスするのか、トモロヲにフォーカスするのか。
個々で見え方が相当違ってくる映画だと思います。
すごくいいことじゃないかと。
「今の峯田が31歳の役はさすがに無理があるだろう」説については、31歳の時の峯田は絶対に「ちゃんとして」見えないので、まあこれでもいいんじゃないかと思う派です。