サカナクション「834.194」のこと

サカナクションのニューアルバムは、ものすごい納得感のあるアルバム。ここまでバンドの音楽的な構造をつまびらかにしていいのか、と思うレベルで。
このアルバムは「ユリイカ」と「セプテンバー」のアレンジや置き場所だけ見ても「2枚組アルバム」と言うよりは「2作のアルバムを1パッケージで同時リリース」と言った方がよい塩梅で。サザンの「kamakura」ではなく、ブルーハーツの「Stick Out」と「Dug Out」的な方針。

その2枚の差異については山口氏自身が既に語っているのを読んだのですが、要するに「作為」と「無作為」。1枚目の東京の方が「作為」で2枚目の札幌の方が「無作為」。
それで気が付いたのが、私はサカナクションをインディーズ2枚目の「Night Fishing」で知り、特に「ナイトフィッシングイズグッド」はいたく気に入っていていて、しかしその後メジャーに行ってのアルバム「シンシロ」を聴いて「悪くはないんだけど、何か違う」と思ったのですが、その違和感の理由を今さら。
そうやって本人に語られ、改めて過去作をだーっと聴いてみるとものすごくわかるんですよ、その「作為」の歴史が。メジャー以降特に意識されたそれが。もちろんそういうのだけでなく「シンシロ」なら「雑踏」とか、「DocumentaLy」なら「years」が一番インディーズ時代の「無作為」に近いか。
でもどうしてもアルバムの中では「脇」の位置に置かれて。

そう考えながら改めて前作「Sakanaction」を聴くと、この段階で既にそんな「作為」と「無作為」が意識されていたのではないかと思いまして。事前にCMで使われていたメロディーが「夜の踊り子」の「え?そんなところのメロなの?」と思う位置に置かれていたりとか、「ミュージック」のライブでの演出はあれ「無作為から作為に渡るための装置」と考えると具合がよかったりとか、個人的にはメジャーに行ってからの曲で一番インディーズの空気感に近いというか敢えて寄せてきたと思える「僕と花」が収録されていたりとか。

どちらかが「本質」というわけでなく、どっちもサカナクションなんだけど、明確にそこには差異があり、その双方を徹底的に突き詰めてみたのが今作。

1枚目は、あの狂ったように「盛りまくった」楽曲である「新宝島」が違和感なくアルバムの真ん中に存在できている時点でもうどっかおかしいし、「ミュージックステーション」出演の際ですら徹底的に「作為」をぶち込んできた「忘れられないの」は、これ圧倒的にフェイクであることが強調されているのに、それが故に「大人に褒められたい」みたいなノリでそういう音楽に近寄っている若いバンドを自壊に導くような恐ろしい出来。全編笑えるレベルでめくるめくキャッチー。

2枚目はこれも山口氏が語っていたように「作為」を覚えてしまったが故に、アプローチはインディーズ期とは全く逆ですが「無作為」を敢えて意識した音。
確かにもうインディーズの頃とは全く違うし、意識してこれということはもう「ワード」とか「マレーシア32」のようなバランスの音は無理なのかなとも思うのですが、「ワンダーランド」の最後のノイズの嵐が途切れて「さよならはエモーション」のイントロがすっと入ってくる時の感覚は、メジャー以降の彼らには感じてなかったものだし。
実際、このアルバムの中で一番好きだと思った曲は「さよならはエモーション」でした。

筆は遅いしリリース延期もするけど、それでもやっぱりこのバンドの己の音楽に対しての真摯さと、それでも洒落を忘れないゆとりと。つくづくいいバンドだと思います。
とりあえずアルバムリリース後最大のエポックは、音ハメ動画の第一人者もりもり氏の動画に山口氏の公認が付いたこと。