世田谷文学館岡崎京子展、終わる寸前で見てきたんですが。
正直、彼女の作品は、何かすげえとは思いつつもがっつりハマることはできなくて、それは彼女の表現が主に「女性」性をベースにして発信されているために、私のような鈍感で無粋な男には本質が理解できないのだという認識でいたのですが、つらつらと展示を見ながら、もうひとつ決定的な点にようやく気が付きました。

彼女の表現は圧倒的に「東京で生まれて東京で育った」人の感覚なんだなあ、と。

何に価値をおいて何を選択して消費するかという点において、東京出身の人と話をすると結構な割合で「そんな違わないよ」と言うのですが、田舎出身の人間確信を持って言います。確実にあります。決定的に違います。端的に言えば「既にあって、そこにある中から選ぶ立場」と「あまりなくて、限られた選択肢から本意でないもの含めて選ぶか、選べないものに焦がれる立場」。

自分は三重県四日市市で育ち、高校の時に名古屋に出て遊ぶことを覚え、大学は関西、就職で東京に出てきて今に至るという、自転車漕いで20分もすれば一応それなりのお店はある、ド田舎とまでは言えない場所から、徐々に大都会に慣れていくプロセスを踏んで東京に来たのですが、それでも東京は圧倒的でした。

音楽で言えば、大瀧詠一岩手県出身ですが、ずっと岩手県にいたままだったら絶対あの音楽は生まれなかっただろうし、山下達郎フリッパーズ・ギターなんか、間違いなく首都圏出身の人間だからこそ作り得た音なわけで。三重県であんな潤沢なバックボーンをベースにした音は作れない。
情報との接点の絶対的な差異の結果として、それはあるのです。

フリッパーズ・ギター岡崎京子もある意味ファッション誌がひとつの主戦場だったわけですが、ファッション誌、特に90年代前後のそれは、いかに東京の今の感覚をパッケージングして伝えるかがカギであり、両者とはだからこそ非常に相性が良かったのだと思っています。

今の時代は相当に東京と地方の差異は縮まっているのですが、それでも「場」であるとか「人」であるとか、流通やネットに乗り切らないところでの選択肢の多さはそれでもハンパなく、やはり東京の感覚というものはしぶとく残っているような気がします。
でも、昔から逆にめんたいロックであるとか、大阪アングラシーンであるとか、札幌出身のバンド勢とか、「東京にない感覚」をむしろ武器にしている人たちはいて、さらに今は地方の発信力が強まっていて、東京にない感覚を強みとしている属性の人たちのプレゼンスはどんどん大きくなっています。それはもうすごい勢いでウェルカムな次第です。

あと、現在各社ファッション誌が売れずに大変な状況になっているのは、紙媒体としての全体的な要因とは別に、ファストファッション系のブランドが地方のイオンとかにぼこぼこ出店し、それなりのセンスと価格を両立したファッションが全国均一に供給される状況が当たり前になった結果、「東京の今の感覚をパッケージングして伝え」る必要性、それに対する需要がシュリンクしたせいだという認識。
レコ屋巡りで地方のイオンとかも回りますが、ほんまにあの中でだいたい全部揃うもの。あとはZOZOTOWNとか。ZOZOTOWNのサイトでファッション誌のチラ読みができて購入もできる状況ってのは、かつての関係性完全に逆転していてもう何かすごいやね。